私が親としてできること
赤ちゃんの「今」を残す手形アートpetapeta-art やまざきさちえです。
ちょっと前の話になるのですが、長男が10歳を迎えました。
10歳って、学校でも二分の一成人式があったり、ちょっと節目の年でもある気がして、何だか感慨深い一年でした。
以前もブログに書いたことがありますが、私は、わが子をかわいく愛おしく思ってはいるものの、こどもとつきっきりで遊ぶ、ということが得意ではありません。
世間の母親像というものは、
「どんな時でもこどもへ愛情を注ぎつづけ、その時間に幸せを感じる」
といったものが、何となく刷り込み的に?あるように感じていて。
長男を出産した当初は、その一般的な母親像と、実際の自分の姿にギャップがありすぎて、ずいぶんと悩みました。
率直に言って、私は初めての育児に多大なるストレスを感じていました。
一方で、私の主人はとても子煩悩な人でした。
そのおかげで息抜きの時間をもらったり、今も仕事を続ける上でのサポートを得られたりと、とても助けられていることは事実で、その点に関しては本当に感謝しています。
ですが、そんな主人の(育児に対する姿の)完璧さを尊敬するとともに、どこかで劣等感を覚えている自分もいました。
彼はこんなにもこどもへの愛情と時間を惜しみなく注ぐことができるのに、どうして私には同じことができないのだろう。
もしくは同じことができても、どうしてそこにストレスを感じてしまうのだろう。
そして、知らず知らずのうちにそんな自分を責めている私がいました。
ですが、今こうして長男が10歳を迎えた今、昔とはちょっと違う気持ちを抱くようになりました。
確かに私には、苦手なことが多くて、親として欠落した部分が多いのかもしれない。
ただ、その代わりに、息子がどんな風に成長しても、どんな道を歩みたいと言っても、私はそれを受容し、ありのままの姿の彼を愛し、きっとその道を応援することができる。
そんな風に考えるようになりました。
私自身は少しイレギュラーな人生を歩んできた人間なので、平均的な人よりも、ちょっとだけたくさんの人と世界を見てきたのではないかと思っています。
それもあって幸か不幸か、いろいろなものを比較的寛容に捉えられるタイプなはず。(たぶん 笑)
なので、こどもたちに訪れるであろう幸福な未来も、そうではないかもしれない未来も、(本人が望めば)一緒に受け止めることができるし、そっと後ろから背中を押すこともできる。
その点に関しては、何だか根拠のない自信のようなものがあり、こどもたちが成長していく上で、きっとそれはプラスに作用するのではないか、そんな風に感じているのです。
親としての自信があるのかと言えば、まだまだそれには程遠いのですが、不思議と以前のように劣等感でいっぱい、ということはなくなりました。
10年間という時を経て、長男が優しくて、ぐんとたくましい少年に育ったように(あ、見た目は小柄なんですけどね、中身の話です 笑)、私自身も親として少しは成長しているのではないかな、そんなことを感じる今日この頃です。
不出来な親ではありますが、だからこそ、その分、持ち合わせることのできた親らしさもきっとあるはずで。
いつでもどんな時でも、こどもたちの全てを受け入れ、見守り、そっと背中を押してあげられる。
私にできるとすれば、それかな、と感じていますし、またそれができる親であれたらいいな、と思っています。