「こころ」と「言葉」
赤ちゃんの「今」を残す手形アートpetapeta-art代表のやまざきさちえです。
今日は個人的な雑感の備忘録です。
良かったらおつきあいください。
「こころ」というものはとても不思議なものだと思う。
「こころ」は目に見えないもので、自分の体のどこに「こころ」があるのかと聞かれても答えられない。
心臓でもないし、頭でもない。
その「こころ」を表現するために、嬉しい、楽しい、悲しい、切ないといった「言葉」が生まれた。
けれど、誰かが『嬉しい』と言った時、その『嬉しい』という「言葉」の定義は人によって微妙に違っている。
全く同じようには相手に伝わらないし、その「言葉」を発した本人も、自分の定義する『嬉しい』とその時に感じている気持ちが、いつもぴったり当てはまっているわけではない。
ちょっと違うような気もするけれど、自分の知っている語彙の中では『嬉しい』が一番近いかな、という感じでその「言葉」が選ばれていたりする。
そう考えると、自分と相手が100%理解し合えることは、ほぼないと言っても過言ではないと思う。
人と人は完全には理解しあえない。
それでも少しでもその穴を埋めたくて、理解できる部分を増やしたくて。
「言葉」が生まれ、人々は「言葉」を使う。
でも、「言葉」を使うことで理解の相違が生まれたりもする。
とても不思議だと思う。
今の世界、とりわけ日本において、肉体的な意味において生き永らえていくことは昔に比べれば難しくなくなった。
たくさんのセーフティーネットが広がり、純粋な飢餓で命を落とす人はほぼいないのではないだろうか。
そういう意味で、現在はとても豊かなはずで、実質的な意味合いにおいて、人の命を脅かすものはぐんと減っている。
それなのに、より幸せそうにしている人が、笑顔の人が、過去に比べて増えているかというと、あまりそんな気がしない。
今は形のない「こころ」を表すために作られた「言葉」が、人の「こころ」を蝕んでいたりする。
みんなが小さな機械を手にするようになり、その中に浮かぶ単なる記号の羅列であるはずの「言葉」に一喜一憂して、それが人の「こころ」に突き刺さる。
時として人の命すら奪ってしまう。
このコロナ禍においても、コロナウィルスに直接影響を受け、肉体を蝕まれている人よりも、コロナ禍を端に発せられた「言葉」に「こころ」を蝕まれている人のほうが多いのではないかと思う。
冷静に考えると、おかしな事象である。
実質的な形がないものに、人々は日々振り回されている。
単なる記号に人が支配されている。
そして、そのことに思い至った私自身は、人一倍、誰かが発した「言葉」に敏感で、傷つきやすい側面を持っていた。
ふと気づくと、できるだけ人の「言葉」を目にしないようにしている自分がいて、そうすると今度は自分が相手にどんな「言葉」を発すればいいのか分からなくなった。
「言葉」を発することに戸惑いを覚えるようになった。
生活や仕事に必要な「言葉」は普通にやり取りできるし、日々の生活も滞りなく進めていける。
それでも、以前なら気軽に発することのできた「こころ」の奥底から浮かび上がってきた想いや気づきを、「言葉」に落とし込むことができなくなった。
それを発することに抵抗を覚えるようになった。
たくさんの「言葉」を自分の中に飲み込むようになっている自分がいた。
それが常態化しつつあった。
ただ一方で、その「言葉」に人の「こころ」が救われることがあるのも事実で。
誰かが自分に直接的に発した「言葉」で自分が笑顔になることもあれば、誰かがふと発した「言葉」が、思いがけない別の誰かに喜びをもたらすこともある。
私自身、周りの人の「言葉」にたくさんの笑顔と喜びをもらいながら、ここまで生きてきたように思う。
とてもとても当たり前のことだったのだけれど、ばったりとその事実に行き当たった。
そのいちばん大切な部分を私は見落としそうになっていた。
「言葉」が、人の「こころ」を蝕む刃にもなりうれば、人の「こころ」をあたためる毛布にもなりえるのならば、たくさんあたたかい「言葉」を使おう。
私はそう思った。
刃がなくなることはないのかもしれない。
でも、たくさんの刃も、よりたくさんの毛布でしっかりとくるんしまえば、その矛先が誰かを傷つけることはなくなる。
たとえ刃に傷ついた人がいたとしても、その人をあたたかな毛布でくるむことができれば、その傷は時間とともに癒えていくのではないか、と思うから。
それならば、私はたくさんたくさん柔らかな毛布を生み出せる人になりたい。
そして、そんな人が増えれば、今よりもきっと素敵な未来になる。
目には見えない「こころ」を左右する記号としての「言葉」。
それを生み出し、扱うことを許されている者の一人として、責任を持った使い方をしていきたいと思う。
たくさんの柔らかであたたかな「言葉」を生み出せる「こころ」を持った人でいたいと思う。
ぼんやりとそんなことを感じていた、夏の終りの一日。
とりとめのない話を読んでくださって、ありがとうございました。